注意
※現パロ。お付き合いしてます。それ以外の主立った設定は特にありませんが、捏造多々注意。※二人が会話をしているだけで何も起こりませんが、糖度はゼロではありません。
「何もない」
ぼそりと溢すと彼はばつが悪そうに彼女から視線を逸らした。そもそもの始まりは彼女に家に行きたいとせがまれたことだった。彼と彼女、二人が男女として交際を始めて半年が経過しようとしていたところだが、二人の家でのデートと言えば専ら彼女のマンションでの逢引だった。彼は、本人曰く学生時代から同じアパートに住んでいるらしい。これまで何度も彼女は彼の家に遊びにいきたいと強請ってきたが、彼は何かと理由をつけては彼女の要望を聞き入れることから逃げてきた。一般的な男女がどの程度の交際期間を経て、一人暮らしの彼氏の自宅に遊びにいくのか彼女──胡蝶しのぶは興味もなかったが、誤魔化され続けてきた経緯があるため流石に訝しんでいた。とは言え、自分の彼氏が例えば浮気などを器用に出来るような人ではないこともしのぶは知っていた。彼の真面目過ぎる性質ゆえ、彼が嘘を吐くことは出来ないとしのぶは感じていたのだ。だとしたら、一体どのような後ろめたいことがあるのだろうか。一体嘘ではない他の何があるのだろうか。胡蝶しのぶには彼──冨岡義勇の思考回路を読み解くのが未だ難しかった。義勇は寡黙なだけではなく、口下手だった。彼の少ない言葉を手掛かりに真実に辿り着かなければならない。今なら彼専属の探偵になれるかもしれないと、しのぶは思いを巡らせた。
しのぶが沈黙している間、義勇は窓の外の空を眺めていた。先刻まで青々としていた空は橙色に変わり、もうすぐ日が溢れ落ちそうになっていた。思えば、いつもその瞬間を見逃してしまう。気が付いた時には夕闇が世界を支配しているのだ。ここからは海が見える。その向こうに身を隠すであろう太陽の行方を今日こそは見届けようと義勇は心中で誓った。
そんな彼の固い誓いは、勿論彼女には届かない。しのぶはある意味明後日の方向を見ている義勇に気が付けば、グラスの中の氷をストローでカランッと響かせた。それでも義勇はびくともしない。遂にしのぶの堪忍袋の緒が切れて、厳しい声音で紡いだ。
「よそ見をしないでください」
ここが公共のレストランでなければ無理矢理にも口を塞いだのに、としのぶは思う。こんな状況なので出来れば彼からしてほしかったけれども、それをする人ではないことをしのぶはまた知っていた。目の前の人はようやく首だけを動かして彼女を見る。その控えめな視線を捕らえる獲物かの如くしのぶは睨みつけると、また瞳を逸らされてしまった。
「していない」
「じゃあ、どこを見ているんですか」
愚問だと思った。少なくとも今の彼の瞳の中には自分は映っていない──いつだっただろうか。誰だっただろうか。目は心の窓だと言っていた人物は。何でも目を見れば相手が考えていることが分かるらしい。俗に言うテレパシーというやつだ──言っていたのは、紛れもない目の前の彼だったらしい。伝聞調なのは、彼の後輩づてに聞いたからだ。しのぶにとっては、にわかには信じ難かった。その割には彼には良く瞳を逸らされるからだ。何故だろうか。やはり自分に疚しいことでもあるのだろうか。不器用だと思っていた人は実はそうではなく、そう見えていただけだったとしたならば。しのぶの脳裏には考えたくもないことがふと過った。だとすれば、今日までの自分の半年間は一体何だったのだろうか。しのぶは一人虚しくなってくる。彼の目に映っているものは何なのだろう。
「……空」
「空?」
しのぶは思わず、鸚鵡の如く彼の言葉を繰り返す。
「日はいつ落ちるのだろうと観察していた」
しのぶは拍子抜けした。窓の外の空を見れば、確かに夕日が微睡んでいる様が綺麗だった。しのぶが彼の腹の内を探っている間、彼はずっと空に夢中だった。しのぶは不覚にも気が付いていなかった──空が綺麗であることを。彼女は一瞬にして心の内が空になるようだった。もしかしたら、彼の腹の内にも何もなかったのかも知れない。最初から空っぽだったのだ。
「このお店、西向きなのですね」
しのぶは店側にも目に見えぬ苦労があるのかも知れないなどと考えた。西日は夏は暑く、冬は眩しいからだ。
「ああ。良い機会だから、日が落ちる瞬間を今日こそは見届けようと思って。いつも見逃してしまうから」
その時だった。義勇が小さく「あ」と漏らすと、日はゆっくりと地平線の彼方へ姿を眩ませた。毎日訪れるはずの何でもない日常の一瞬であるのに、まるで映画のワンシーンのようにドラマチックに感じられた。数秒間、静寂が二人を支配する。少し気まずいとしのぶは思う。彼とは見ているものが違ったのだ。空の美しさにも気付かぬほど自分は余裕がなかったと言うのか。いつか同僚が「穴があったら入りたい」と言っていたけれど、今、彼の気持ちが分かる。
「胡蝶と見れて嬉しい」
彼の笑顔は空に残った橙色が差して眩しかった。先刻までしのぶの中で燻っていた感情は完全に霧散した。これまでずっとはぐらかされ続けてきて、怒りも頂点に達していたというのに、何だかどうでも良くなってしまったのだ。我ながら単純だと内心自分で自分を嗤った。
***
ビルを出ると空は金色に輝いていた。程なく紫色に変わるだろう。二人は駅に向かって歩いていく。会話はなかった。しのぶは、今日こそは彼の家に行くと意気込み、彼に贈る菓子折りを持参していたが、猶予期間を延長することを決めた。それが何日か何週間かは今夜彼と別れてから考えることとしよう。菓子は自分で食べるか家族に渡そう。今はもうそのような気分ではなくなったのだ。今日の空がたまたま綺麗であったから。彼が自分の意思で招き入れてくれるまで待とうと誓った。
二人はこの後どこに行こうか決めていなかった。帰宅するにはまだ早い時間で、しのぶはこのまま帰るのが名残惜しいと思っていた。彼はどう思っているのだろうか──義勇の横顔を覗けば、相変わらず空を見ているようだった。さて、この後しのぶが探りを入れる暇も無く、物語は急展開を迎えることとなる。
隣を歩く彼がぴたりと足取りを止め、しのぶの肩をつんつんと指先で小突いた。しのぶは再度彼の顔を見る。視線は合わなかった。合わなかったけれども彼が何かを伝えたそうであることは察した。
「冨岡さん……?」
「──胡蝶。この後、うち来るか」
義勇のこれまでとは一八〇度違う発言に、しのぶは耳を疑った。長い間頑なに拒み続けてきたというのにも関わらず一体何なのだろうか。それは、まるで知恵の輪が解ける瞬間のようだった。あんなに絡まっていても、正解を見つけた時、それは急にするりと解けるのだ。今日まで焦がれ続けてきたやっとの彼の誘いにしのぶは瞳を見開いた。その丸さは、先程まで空に君臨していた太陽をも凌駕していたかも知れない。
「どういう風の吹き回しですか」
「どういうも何も。逃げるのはもうやめようと思って」
義勇は決まりが悪そうに言った。
「逃げてたんですか」
「ああ」
「……捕まえますよ」
しのぶは義勇の袖をぎゅっと掴む。空は金色が紫色に染められそうになり、上端の方には藍色が姿を現しはじめていた。この時間をマジックアワーと言うらしい。いつか観たテレビで言っていた。番組名は忘れてしまったけれど。
「うん。だから聞いてる。うちに来るか、と」
義勇の瞳は金色と紫色が混ざった空を見ていた。しのぶは彼の袖を握る手の力を強める。霧散したと思っていた感情の粒が彼女の最奥に再度集結し、形を明確に成す。全然どうでも良くなどなかったのだ。また巧妙にはぐらかされるところであった。けれども、事態は急変した。今の彼女はあの彼に自分の家に来ないかと誘われている。一体どういうことなのだろうか。
「私の目を見て言ってください。それとも、見れないということは、私に対して何か後ろめたいことでもあるのですか」
あんなに焦がれていた言葉であったはずなのに、裏腹の態度を取ってしまう自分にしのぶは辟易した。しかし、ビルを出てからというものの、隣の彼氏とはちっとも視線が合わないのだ。もしも、目が心の窓だとするならば、しのぶは義勇の視線を逃がしたくなかった。逃げるのはやめると言ったのはどの口だろうか。そうであるならば、自分の目を見て告げてほしい──彼女が悶々と思案していれば、義勇が渋々と口を開いた。
「情報が多い」
情報が少なすぎる義勇の言葉にしのぶは首を傾げた。行動と言動が一致しないとはこのことか。彼女は彼を逃したくないものの、理解が追いつかなかった。しのぶが「はい?」と更問いすると、義勇は観念したかのように深いため息を吐き、付け加えた。
「お前の目からは沢山の情報が雪崩れ込んでくる。処理に困る」
「それはどういう意味で」
言葉を多少足されても理解が難しい内容だった。しのぶは困るのはこちらだと言い返したかったが、言葉を呑んだ。
「油断大敵」
もう少し言い方というものがあるだろうとしのぶは思う。一升進んだと思ったら三升戻ったような心地だった。だが、ここまで来たからには振り出しには戻りたくない。油断大敵はしのぶにとってもそうなのだ。絶対に負ける訳には行かない。
「よく分かりませんが、困ったとしても今は私の目を見て言ってほしいです。半年も誤魔化され続けてきた身にもなってください。こちらとしても不安になるんですよ。私がこの半年間どんな想いでいたかお分かりになりますか?」
しのぶが視線を下にやると当然のことながらコンクリートの地面が広がっていた。今この状況で後ろを振り向くことは出来ないが、恐らくは自分と彼の影が伸びているのだろう。マジックアワーは短い。およそ三十分だと言う。もうすぐ終わってしまう。
「不安にさせたのは申し訳なかった。でも心外だ」
しのぶの右頬に彼の左手が添えられる。しのぶが彼の顔を見上げれば、ようやく二人の視線が真っ直ぐ重なった。
「隠し事なんてひとつもない。だから、お前に来て確かめてほしい。証明したい」
視線から彼の真剣さが伝わってくる。しのぶはこくりと頷く。
「やっと私の目を見てくださいましたね」
そう言われるなり、すぐに義勇は視線を空に流そうとしたが、しのぶに「天邪鬼」と指で頬を小突かれる。再び、二人の視線は一ミリのずれもなくぴたりと重なる。
「俺もお前の答えを聞いていない。イエスかノーか。ノーなら日を改めて誘う」
紳士的とも言うべきなのか。断られるはずがないのに、彼は彼女の意向を改めて確認した。瞳を見れば分かると言っていたのは誰だっただろうか。しのぶが黙っていれば、彼は「……俺だって、お前の口から聞きたい」と小声で付け加えた。義勇の拗ねたような口調に思わずしのぶの口元は緩やかな弧を描いた。この人はしのぶよりも年上なのに、時折末っ子のような態度を見せるのだ。実際末っ子なのだけれども。
「はい! 是非。喜んで」
しのぶは満面の笑顔を浮かべながら、両の手で彼の右手を包んだ。何だか今日の彼の手は冷たく感じた。冬が来るにはまだ早い。
「何度も言ったけど、うち、本当に何もないよ。お前を退屈させてしまうと思う。そんなに広くもないし、綺麗でもない。でも、あの部屋……学生時代から住んでるから愛着があるんだ。とは言え、お前から見たらお粗末だと思う。くれぐれも期待はしないでくれ」
義勇は先程はぶっきら棒に放った言葉を今度は照れ臭そうに、けれどもゆったりと紡ぐ。どうやら彼なりに言葉を選んでいたようだ。その様にしのぶはたまらなく愛おしさを感じた。
「冨岡さんはそうおっしゃいますけど、私にとってはそうじゃないんです。何もないとは思っていませんが、何かがあることは然して重要ではないのです。例えば、夕日が空の彼方に姿を消すことのように。太陽にとっては日課であり、決して特別なことではないのです。それでも──美しかった。私は冨岡さんに受け入れてもらえたことが嬉しいんですよ。冨岡さんの愛着があるお部屋なら尚更に興味が湧いてくるものです。屋烏之愛という言葉をご存知ですか? いえ、ご存じでなくても構いません。これもまた重要なことではないのです。それから、私、冨岡さんとお付き合いさせていただいて以降、退屈だなんて思ったこと、一度もないです。逆に冨岡さんを退屈だと思わせてしまったことがありましたら申し訳ないのですけれども」
しのぶは口数の少ない義勇とは対照的に一呼吸も置かずに言葉を巧みに繋げていく。
「……思ったことない。一度たりとも」
しのぶが義勇の瞳を覗けば、自分の顔がくっきりと映っていた。瞳を見れば分かるとかつての彼が言っていた。目は心の窓なのだと。しのぶがこくりと頷くと、義勇はしのぶの手を自身の手で包んだ。しのぶの手は温かかった。二人は再び歩き出す。ここから彼の家まで電車で三十分と少々。並んだふたつの細長い影が夕闇に溶けていた。
END.